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松本“KINKY”康 シーナ&ザ・ロケッツを語る!

以下はさる8月10日に開催したDJイヴェント「ブギしよう!〜博多とロック vol.3〜/シーナ&ザ・ロケッツ特集」でのトーク・コーナー、「松本“KINKY”康 シーナ&ザ・ロケッツを語る」の一部始終です!
ロケッツ、特に鮎川さんとの知られざる?エピソードや、"Keep A-Rockin'"という姿勢について、語りまくった予定時間オーヴァーの60分トークをお楽しみください!

(聞き手:緒方玄=当日のDJ)

――松本さんは、鮎川誠さんのインタビューやいろんな関連記事を通じて、鮎川さんの盟友として知られています。まず、松本さんが鮎川さんと知り合ったのはいつ、どのようなシチュエーションだったのでしょうか?

松本 1971年か72年の話なんだけど、私が「ぱわあはうす」という、福岡でほとんど最初にできたロック喫茶でスタッフというか、注文を取りに行ったり、コーヒーを持っていくという役をやっていて。昼間の担当で、夜は塾を、ジュークではなくて塾をやっていて…(聞き手とお客さん、苦笑)。夕方までのバイトが「ぱわあはうす」だった。そこでしばらくしてサンハウスというバンドがいるっていうことを知った。多分サンハウスのメンバーで最初に来たのは鮎川誠さん。ある日突然、マコちゃん(鮎川誠さん=以下同)が来て、びっくりした。ああ、あの人が来たって。後で分かったけど、マコちゃんはそういうところに積極的に行く人。今回も(鮎川さんから送られてきた、本人編集DVDの入った封筒を見せて)こうやって送ってくれるくらい、物事に対して積極的な人。それで、店に来てくれて、私が何にしますかって言ったら、彼は何と言ったでしょう?コーヒーとか、コーラ、ビールとかあるんだけど、最初の言葉で僕はぶっ飛びました。…「牛乳」と言いました。
 「牛乳ちょうだい」って言われて、私が「はぁ?」、「ミルクですか?」って聞いて。当時「ミルク」というメニューがちゃんとあった。氷を入れて、牛乳を入れるという。じゃあ「ミルクですか」って聞いたら、「いや牛乳」って。「氷を入れんでそのまんま、牛乳持ってきて」って言われて、そのまま持っていった。で、常人ではないなと思って観察していたら、カバンをにわかに開けだして、中からコッペパンを出して、牛乳と一緒に食べだした。「持ち込みしたらいかんでしょ」って言いたいけど、私は初心者だったんでそんなこともちろん言えない。でも、そういう周りを気にしないっていうか、わが道を行く、まさしくロックンローラーだった。そんな、どんくさいことをやるけど、ルックスはジョン・レノンのような丸い眼鏡をかけてて。ジョン・レノンがソロになって、「ラブ・アンド・ピース」をアピールして、時代の寵児のようになっていた時代があって、そのときの眼鏡。ルックスそのものもびっくりしたけど、そのルックスから出てきた言葉が「牛乳」っていう、このギャップに私はもうびっくりした。それが最初の出会い。
 当時、川端とか中洲にダンスホールがあってサンハウスはそこに出ていた。そのうちハコ(ダンスホールなど)がどんどん潰れてきて、やる場所が無くなったっていうのもあったし、そういうハコでやる、踊らせるためだけのロックというのがもういやだっていう、メンバーの志向性が変わってきたときに「ぱわあはうす」でやることになった。「ぱわあはうす」はここ(ジューク・ジョイント)を細長くした感じで、まだ狭くて、天井も低いところだった。基本的にはロック喫茶だけど、ライヴもやってみようかな、と。(サンハウスは)それまでは、西鉄グランドホテルの裏に「サンタナ」という大きなフロアのお店があって、そこで練習させてもらいよったみたい。そこでの練習が終わって、よくコーヒー飲みに「ぱわあはうす」に来てくれてた。そのときはもうメンバーがみんな来ていた。奈良は中洲のスマートボールとかアレンジボールとかをして、そのあとで遊びに来てくれてた。何回か来てくれているうちに、オーナーの田原さんと意気投合して、じゃあウチでライヴもやってくれるなら、まあ練習するところもなかろうけん、場所使ったらいいじゃん、っていうことになった。営業時間の前に。昼の12時からが営業時間で、あの人たち、練習は朝の8時集合とか9時集合とか。
 最初の頃は私が店を開ける係だった。鍵持っとったから。でも、9時って約束したのに、ある日寝坊して、「ああ、いかん」って急いで行って10時ごろ着いたら、みんな、こう(腕組み)むうっとしてた。不覚を取るというのはまさしくこのこと。それから私、信用されなくなった(苦笑)。メンバーが「コウちゃん、どうもいかんごたあね。鍵、俺たちが借りとってよかかいな」って言って。それから本人たちが自分たちで開けて練習するようになった。私は、練習の終わりがけにちょっと見に来る感じだった。
 練習で印象的なのは、1曲終わったら、みんな何も言わんで、むうっとしてたこと。何か建設的な意見を言うわけでもなく、竦(すく)んだ感じ。最終的に柴山さんが「もう1回いこう」って言って、その曲をガーン、と頭からやる。私から見たらどう変わったか分からんけど、ちょっと良くなったかなとは思うけど、また「いやちょっと違う」って言ってやり直し。それを延々繰り返してた。そういうのはいまだに鮮明に憶えてる。

――鮎川さんのギタープレイは鳥肌が立つほどカッコいいと、当時から高く評価されていたと聞きます。松本さんはそのプレイを長く、身近で見てこられたわけですが、どのように感じましたか?

松本 鮎川誠のギターが凄いっていうのは、前回やってたのを見て、その次を見たら、絶対、目盛りが上がってるというところ。当時、マコちゃんもまだ23か4なのに、もう、大リーガーみたいな感じ。私たちは高校野球ぐらい。一番印象的なのは、弦をよく切ってて、1弦をバキッと切るんだけど、そのまま2弦を使って弾く。1弦の低いところ(フレット)の音は2弦の高いところで同じのが出るから、残った5本の弦で変わらんように弾いてた。それがびっくりした。
 ずっと後だけど、「鮎川さん、弦は何を使ってるんですか」という話になって、(普通なら「ギブソンの」とか、「フェンダーの」とか、「太さは0.09からのセットで」とか言うのに)マコちゃんがそのとき言った言葉が「オレは25円の弦使いよったい」。ま、そういう人です。

――松本さんが鮎川さんと知り合われた頃、既にシーナさんも一緒だったそうですね。それで松本さんは二人の愛の巣へ足しげく通い、鮎川さんの音楽講義を受けていたと聞きました。

松本 「ぱわあはうす」がここ(ジューク・ジョイント)だとしたら、シーナとマコちゃんが住んでいるのが今のジューク・レコードのところくらい。本当、目と鼻の先だった。私が家に帰るときに必ずそこに寄って、コーヒー豆を持って。あの人たちはコーヒー大好き、一人1日10杯ずつ飲む人たちだから。「コーヒー飲んでいかんね」って、誘ってくれたのが向こうにとっての運のツキ、私にとっての絶好のチャンス。毎日、お呼ばれになりました。「ぱわあはうす」を5時に終わって、6時くらいから塾が始まるから、その1時間が私のゴールデンタイム。私に言わせると鮎川塾に行っていた。私が塾に行く前に、鮎川塾に勉強に行くという。

――どんな音楽を教えてもらっていたんですか?

松本 基本はブルース。私が当時一番興味を持っていたのはブルースだった。ロックは一通り聞いていたけど、ブルースというのがどうもよく分からんで。レッド・ツェペリンにしてもクリームにしてもジョン・メイオールにしてもみんなブルースがベースにあるって言われてるんだけど、よう分からんときに、彼らが、サンハウスがそれをもう演奏していた。私は本で一生懸命読んで「ブルースとは何ぞや」ってしようけど、彼らは既に体得していた。
 ただ、鮎川誠はもう一つ言うなら、理論派でもある。学究的に極めようという姿勢もある。本読んだり、歴史を調べたり、そういう部分もちゃんとやる。直感的に音楽を聴くだけじゃなくて、ちゃんとそうやって勉強する。
 ちょっと偉そうに言うなら、個別のことはいろいろ教えてもらったけど、何を一つ学んだかというと、「音楽は自分で探れ」ということを教えてもらった。それが私の血となり肉となった。鮎川先生には話したことないんですけど。みなさんの前に告白するけど。

――ぜひ、明日、熊本現代美術館での鮎川さんとのトーク・ライヴで、そういうお話をしていただきたいと思います。

松本 そうやね(笑)。明日こそ言おうかな。

――「音楽は自分で探れ」。“DIG”と言うことでしょうか?

松本 “DIG”ね。掘り下げていくということ。そこから音楽は外側から見ていたんじゃ分からないよ、中に入っていかないと音楽分かんないよ、ということを教えてもらった。

――中に入るというのは?

松本 例えば、誰かがある音楽をいいって言っても、それは誰かが言ってるだけで、自分にとってまだ身に付いていない。それを自分で身に付けないとだめだよっていうこと。自分のフィルターを通して音楽をちゃんととらえなさいよ、ということ。

――なるほど。その鮎川塾が高じて「ぱわあはうす」で伝説的イベント「ブルースにとりつかれて」が始まったということでしょうか?

松本 そう。72年の12月から始まって毎月1回、全部で20回やった。やってるうちにサンハウスが全国的に少しずつ浸透していって、トランザムとかそういうバンドと全国ツアーするようにもなった。レコーディングの話もあって、やっぱりレコーディングというのは何週間とか出張しなきゃいけないし、曲も作らなければいけなくて、そっちが主だから。それでなかなか出来なくなったのと、ブルースは10何回もすれば一通り循環するんで、大体やったかなというのもあったから、「じゃあこの辺で(終わろう)」ということになった。「19回目の神経衰弱」というマコちゃんが好きなローリング・ストーンズの曲があるけど、それに合わせて19回目で終わりにした。20回目は私とドクター虫山蝶太郎(もちろんニックネーム。鮎川さんの大学の後輩で虫とブルースの研究家)とで、プラスワン、オプションでやった。実質は19回。

――1回で何時間ぐらいやってたんですか?

松本 3時間か4時間ぐらい。最初なんか5時間ぐらい、ずっとブルースかけて。何十曲くらいやったかな。

――事前にテープに曲をすべて録音して、それをかけていたそうですね。

松本 当時は、カセットテープというのがそんなに出回ってない時だった。オープン・リールの音がいいっていうんで、私、もう一つ雀荘のバイトもしよって結構金回りよかったからテープデッキを買って、それに録音した。そのテープは今もある。それにかけて、ガチャッとポーズして、その間にマコちゃんが「この曲はっさい、こげんたい」って言って。久留米弁で「これがっさい」って説明してた。

――相当な労力ですよね。

松本 もう大変だった。ガリ版刷りで冊子も作ってた。それでマコちゃんが、(鮎川さんから送られた封筒の宛名書きを見せて)この字と全然変わらん字でコメントを書いていた。すると、やっぱり説得力が全然違う。私もピンチヒッターで1回か2回、したことあるんだけど雲泥の差。既に(音楽が)血となり肉となっている。マコちゃんは、スポンジが水を吸収するように音楽を吸い込むという人。

――そういう吸い込まれていったものが一つの結晶となったと言うんでしょうか、「200CDロックンロール」と言う本を鮎川さんが2005年に出されて、あれはもの凄い本ですよね。

松本 あれはまた、鮎川先生を見直しました。やっぱりすごい。あの本のあの言葉が出てくるまでには、音楽を相当、血肉にしている。マコちゃんはよく、小骨をいっぱい食べて骨が、カルシウムが強くなるっていう言い方をしてて。

――カルシウム好きですねえ。

松本 いきなりカルシウムのサプリメントを飲んで骨を強くしようというのはダメ。しょうもない音楽も含めていろんな音楽聴いて、小骨のある魚を食べながら体を作る、というのが彼の「教え」です。

――なるほど。お話をシーナ&ザ・ロケッツ結成時へ進めたいと思います。まず、シーナさんが歌うようになったときはどんな感想を持たれましたか?

松本 (サンハウスが終わって)ある日突然、「シーナで行こう」って。でも、当然というか、私たちは「ああ、そうやね」って感じだった。身近にちゃんといたという。リズムで歌える人はそれほどいないけど、シーナはリズムで歌えるし、リズムで歌っても音にちゃんと食いついて行ける。そういう歌い方だから、「ああ、やっぱいいじゃん」という感じだった。もちろん柴山さんとは、また違う感じで。柴山さんはある意味、ここではっきり言えば、スタイリッシュな人。全部固めて、そこで行こうという。シーナはわりと、その時の音の上に乗って自由に行く。ある意味、違うロックのフレシキブルさを見せてくれるという気はする。(アルバム)「#1」はサンハウスを引きずりつつシーナに移行したという感じで、ガツーンときて、シーナがそれをやってるからいいっていうのもあるけど…。やっぱりもっと言うなら、シーナのポップさとかそういうフレキシブルさは、それから後に出てくることになる。

――鮎川さんはサンハウス時代、ある意味福岡に在住して活動することにこだわっていたわけですが、それが東京へ移って活動することになったのはなぜでしょうか?

松本 サンハウスであれだけやって、福岡にいたってどうもならんやったっていう、そういう閉塞感はあった。現実に何もないから。例えば、レコーディング・スタジオがまずない。もちろんあったんだけど、当たり障りのない(ギターを軽くストロークする身振りで)シャンシャラシャンシャラっていうのは出来ても、(ドラムを激しく叩く身振りで)ダダダダダダダダーってみたいなことはできなかった。それでリズムで歌うっていうのができない。エンジニアが録り方分からないんだ。メディアもないし、仕事になるようなマネージメントをする基盤もない。ないないづくしで、結局サンハウスはあれだけ頑張ってしたのに、アウトプット、出る部分がなかった。それで、マコちゃんとシーナは、東京に何が約束されとるわけじゃないけど、「まだ若いんだし賭けてみようや」、というとこだったと思う。

――鮎川さんたちは東京へ移り、「#1」を発表します。その後、1979年12月に「ユー・メイ・ドリーム」をリリース、この曲はJALのキャンペーン・ソングにも採用され、1980年に大ヒットします。ここで鮎川さんとシーナ&ザ・ロケッツは全国区になるわけですが、このブレイクまでにはどんなことがあったのでしょうか?

松本 例えば、手前味噌だけど、最初のエルボンからのシングル盤のチラシはジューク・レコードで作った(このチラシは http://www.rokkets.com/Disc/srs001hiwayflyer.html で見ることができます)。今日のフライヤーの元になったやつ。エルボンははっきり言ってロックっていうのが分かってない会社だった。営業所が近くにあったんで遊びに行ったりしたけど。もうひとつ水と油みたいな感じでうまくいかなかった。もちろんバンドはもう(スクリーンで「ベイビー・メイビー」の演奏シーンがかかっているのを見て)こういうスタイルを確立していたけど。ステージはすごいカッコよかったんだ。ただ、音源としてきちっと残していくということになると、まだ、日本のレベルが上がってなかった。そうこうするうちに、ライヴを高橋ユキヒロが見に来た。それで「カッコいいじゃん」ということになって、YMOはもう出来てたのかな、彼が細野さんに紹介した。細野さんも元々「はっぴいえんど」の人やし、ロックの人やから、気に入って。細野さんたちはいわゆる「東京派」みたいな感じで、あんまり汗をかかないロック、かたや汗をかくロック。対極にあるから細野さんもすごい興味持つし、マコちゃんもそういう違うとこに地平が開けたみたいな感じだった。それで、一緒になって、当時はテクノとロック・ビートの出会いだ、という感じになったんだけど、そこでブレイクした。

――ポップさもプラスされたましたね。

松本 そう。それはもともとシーナが持ってたもの。余談になるけど、さっきの(スクリーン映像の)「クライ・クライ・クライ」のときにサックス吹いていた人はスティーヴ・ダグラスといって、フィル・スペクターとかのバックでサックスを吹いていた人。それは運命の出会いというか、ミッキー・カーチスさんが結びつけたんだけど、元々、シーナにはそういうロネッツだとかガール・グループの要素があった。当時で言えばブロンディとかも出てたし。だから、みんなは柴山さんの影を追う、サンハウスの影を追うというのもあったけど、やっと何かシーナらしさが出たんじゃないかなと思う。

――松本さんは「恋のムーンライトダンス」「ワンナイト・スタンド」「ハートに火をつけて」「クレイジー・クール・キャット」「ブルーアップ・オン・ザ・ビーチ」「ボン・トン・ルーレ」と、バンドやシーナさんのソロの曲に、詞を提供していらっしゃいます。

松本 若気の至りで…(照)。

――どんなオファーだったのでしょうか?

松本 なんか「書いちゃらん?」という(軽い)感じだった。で、書いて、渡して。(意外だったのは)「ムーンライトダンス」は韻を踏むような感じの、作り上げた、フォーマットにのっとった詞で、まさかあれが採用されるとは思ってなかった。試作品みたいな感じで、おっかなびっくり渡しとったんやけど、それがいつの間にかああなって。「ワンナイト・スタンド」はまったく詞が先。「クレイジー・クール・キャット」は「こんな感じで行くけん、カッカッカッ(カッティング)、となるところを決めて」とか話したり。「ボン・トン・ルーレ」は、最初は「春のめざめ」というタイトルだった。「春」というのがテーマで、あと「何かフランス語っぽい響きを入れとって」ちゅうことになって、で「ボン・トン・ルーレ」になった。ドクター・ジョンとか聞いたら出てくるけど、フランス語で、意味は「Let The Good Times Roll」っていう、「楽しんでいこうぜ」っていう曲。細野さんがえらく喜んでくれたらしい。細野さんはそのあたりのニュー・オリンズ好きの人なんで。

――鮎川さんからの評価はどうなんでしょうか?松本さんの詞はいいねえ、とか言われませんか?

松本 それはおこがましいけど。でも、今度の「ゴールデン・ヒッツ ジ・アルファ・イヤーズ」(ベスト・アルバム 7/25発売)に3曲も入れてくれとうし、すごい大抜擢よ。ほんと大抜擢。もう、申し訳ない(照)。オレ、ほんと恥ずかしいったい。(作詞は)若気の至りやん、とか思うけど。

――松本さんが考えるシーナ&ザ・ロケッツの楽曲の魅力はどういうものでしょうか?例えば、全く知らない人に聴かせるとしたらどんな曲を勧めますか?

松本 難しいこと言うね。でも、今、ライヴでやってるような曲が残ってる曲だと思う。「レイジー・クレイジー・ブルース」にしても、「オマエガホシイ」にしても。今日、みなさんのベスト10を集計したのを見たけど、まさしくそれ。やっぱりそれは万人が認めるいい曲だし、そういう曲をやってる人たちだよってことを言いたい。
 もちろん、その間にずっと歴史があって、それはファンクラブの会長さん(まおらうさん)がときどき再発見っていうか「この曲いいよ」って言ってくれるんだけど、そういう楽しみ方もある。ロックを聴く面白さにはそういうとこがある。あるとき聴き直すと、また違って聞こえるという。おなじみのメロディーをおなじみの聴き方で、あるいは懐かしいって聴くだけじゃなくて。そのときのフィーリングで、ちょっと新しく聴こえるっていうことは、そのバンドがロックな魅力を持っているということだと思う。

――松本さんは、もう何十回、何百回とシーナ&ザ・ロケッツのライヴを見られたと思いますが、その中でのベストはどんなライヴでしたか?

松本 例えば、シオノギ(製薬提供のTV番組)の「ミュージック・フェア」で、市松模様のバックで歌っているのとかも見た。(ちょうどスクリーンにその映像が映る)そう、このときちょうどスタジオにいたんだ。確かラモーンズとツアーしてて、それを見にいったときに収録があったのでお邪魔した。この時から、ずっとスタイルは変わらない。いや、変わらないというんじゃなくて、やってることはカッコいいわけ、ずっと。
 やっぱり一番驚くのは鮎川誠のギター。同じことをしない、っていう。同じようなことしようけど、そのときどきの力量を出すという。それはB.B.キングと同じ。B.B.キングは一見、同じようなことしよるみたいやけど、毎回違うことしよる。それと同じ難しさ。逸脱していないように見せながら、逸脱しようとする、ベクトルを外に張り出そうという、そこがカッコいい。他のみんなは、「こういうフォーマットで、こういう流れで、ここまでで収めちまえ」とか、予定調和的にやろうとするけど、そこがない。それはライヴ行かんと分からん。ライヴはもちろん生ものだから、「今日はちょっとね」というときもあるけど、やっぱり、その張り方ちゅうか、それが凄い。
 一番記憶に残っとうのは、一回、CBで、いつか忘れたけど、「何があったの?」という感じのライヴ。一つ一つの音、全部がONの状態のときがあった。

――立ち上がっているという感じですか?

松本 そう。そんなときは、何とも言えないっていうか、言葉にできない。それはいろんなところで(ここにいるお客さんの)みなさん、体験していると思うけど。

――2003年のシーナ&ザ・ロケッツ25周年では、松本さんが福岡での記念ライヴを企画されました。信じられないようなゲストが多数出演してセッションを繰り広げ、もちろんシーナ&ザ・ロケッツ単独のステージも素晴らしいという、奇跡のような、幸福な2日間でした。来年、2008年、バンドは30周年を迎えます。また、みんながびっくりするような企画を立ててもらえますか?

松本 うーん。誰かやってください、っていう感じ(笑)。…と言うか、一つ言いたいのは、同じメンバー、スタッフでやってたらいかんと思うわけ、私も含めて。だから、私は、「やったけん、もういいじゃん」(笑)。今度は見せてよ、っていうのがあるよね。
 ただ、違う言い方すると、やっぱり30周年だし、私としてはお師匠さんに何か捧げなきゃいけないという気持ちももちろん、たくさんありますんでね。それは難しいところ。と、そうこうするうちに時は迫りつつ、ああ、っという間に30周年になる(笑)。いろいろできる限りのことは私もしますけど、できたら何かみなさんで盛り上げられるようないい手はないかな、と思います。

――「この30年でのバンド最大の出来事とは何ですか?」という質問も作ったんですが、よく考えたら、やはり、「続けてきたことこそが最大の出来事」だと思い至りました。

松本 まあ、決して、順風満帆な道じゃなかった。本当、大変だったのは私も傍で見ていたし。でも、そういうのを感じさせない。そんなこと言っても、結果だから。ミュージシャンとかスポーツ選手は、やっぱり結果をちゃんと出さんといかんので。
 続けられるていうことは、私も思うけど、やめようっていう理由がない。そこ、大事なことだと思うったい。鮎川誠がギターを置くなんて考えられん。そこが凄い。常にそのために、何か見えないところで切磋琢磨しているはず。そこやね。

(以下、聞き手:DJ Ogataのまとめ)
…と、トーク・コーナーは当初30分の予定だったのですが、大幅にオーバーして、倍の1時間近くとなりました。松本“KINKY”康さん、語り倒しました。普段、“KINKY”(風変わり者)を自称する氏ですが、シーナ&ザ・ロケッツを語る表情は、愛しくて愛しくてしょうがない、という幸せそうな笑みに満ちていました。